時雨月の音 8
8
店内の薄暗い照明の中、男女のカップルが密着し合いながら愛を語り合う。
滑稽な姿に映るようになったのはいつからだろう。
俺にも、あんな風に愛しい瞬間は
あったはずなのに。
トンと肩に手がかかって先輩バーテンダーの潤くんが俺を覗き込んだ。
「顔色悪いぞ…大丈夫かよ」
松本潤、年は同い年だけど、しっかり将来の展望を立てて日夜努力を惜しまない熱血派の俺とは正反対の男だ。
磨いていたグラスに視線を落として笑った。
「ほんと?大丈夫だよ。潤くんこそ、最近シフト詰め過ぎじゃない?倒れるよ」
潤くんはニッと薄い唇を横にして
「大丈夫、大丈夫!早く独立したいからさぁ…勉強出来る時間なんてあっという間だかんな。目指せ世界制覇!なぁ〜んてな。あ、いらっしゃいませぇ」
潤くんは開いた扉から入って来た見るからに夜のお仕事なお姉様を連れた長身の男に挨拶した。
長いサラサラの前髪が顔を隠していて、女の肩にグデングデンに寄りかかって歩いてる。
「もうっ!大丈夫ぅ?ハハっ!ヤァダァ〜変なとこ触んないでよぉ〜」
クスクス笑いながら2人とも既に酔っ払っているのが分かった。
女のピンヒールが今にもグニャリと曲がって足を捻らないかヒヤヒヤする程には俺は冷静だったんだ。
男はジャラジャラとシルバーのアクセサリーを付けていて、頭に乗せたサングラスがよろめいて床に落ちた。
俺はカウンターから出てそれを拾い上げ…
「あんた…」
「何ぃ?…見惚れてんの?俺、いい男だもんねぇ〜?あれ?どっかで会った?…くふふ…あ〜…綺麗な目、してんな」
「ヤダァ!そういう趣味ぃ〜?キッモ〜イ!」
女がチラッと俺を睨んで男の腕にしがみついた。
「アハハ!バーカ!そんな困ってねぇよ」
その瞬間だった。
カッと頭に血が昇って男の…相葉さんの頰を平手打ちしていた。
男は、今朝会った相葉雅紀。
その人だった。
パシンと乾いた音が響いて、背中のカウンターから潤くんの声がした。
「ニっニノっ!何してんだよっ!」
ハッと我に返って血の気が引いて行くのが分かる。
「すっすみません!」
ガバッと頭を下げる。
相葉さんが近づいて来るのが分かる。
爪先が俺の目の前で止まると、長い指が俺の顎を掴んで引き上げた。
相葉さんが屈んで顔を近づけてくる。
俺は掴まれた顎のせいで顔が動かせず、視線だけを外して唇を噛み締めた。
「ふぅん…おもしれぇじゃん…」
「…何がだよ…」
ささやかな抵抗を吐き捨てた。
唇が触れるか触れないかのギリギリ。
「なぁ…ココ…見て」
相葉さんが中指で自分の左の目尻付近を指差しながら呟いた。
「涙…ボクロ……」
俺は目を見開く。
「あんたの言う相葉さんは…こんな風にしてくれたほう…かな?」
目尻を指していた中指がいやらしく俺の唇を割って中に押し込まれた。グイッと指が咥内を撫でる。
「ぅっ…ぅゔ」
ズルッと引き抜かれた指を男はペロリと舐めた。
掴まれていた顎を離され身体がよろめく。
「俺は雅斗(まさと)。雅紀は俺の兄貴だ。ま、言っても双子だけどな…宜しく…ニノ」
カウンターから俺を呼んだ潤くんを見てから俺の名前を確かめるみたいに呼んだ。
「まさ…と?…双子?…う、そだろ」
「ハハ、まじでビックリしてんじゃん。まぁ、見分けつかないわな。親でもたまに間違えてたし。ここにホクロがあんのが俺、無いのが雅紀だ。覚えてて損ないだろ?」
トンと長い指が俺の胸元を押した。
「なんかシケたし帰るわ。ミナ、またな!今度はやらせろよな」
「ちょっっ!雅斗っ!あたしも帰るぅっ!」
彼女は扉が開いた先の階段に駆けて行った。
外から入ったひんやりした空気に肌を撫でられ、軽く身体が震える。
客はカウンターの奥に1人呑みが居るだけで、店内は機嫌の良い洋楽がいつもより良く響いていた。
何が起こっているのか整理し切らないままカウンターのスイングドアを押して潤くんの側に戻る。
「何だよ、あの客…知り合い?元カレかなんか?」
俺はフルフルと頭を左右に振った。
「だけどさぁ……」
潤くんは何とも形容し難いようで、言葉に詰まっていた。
「うん…でも…ほんと違うから…俺、あの人は知らない」
あの人は
知らない。