時雨月の音 51
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paradoxの店内はいつも通り穏やかな賑わいだった。
雅斗が相葉さんと暮らすマンションに戻らなくなって1か月が経つ。
最初こそ、衰弱するほどだった彼は最近になってようやく普段通りの過ごし方を思い出し始めていた。
相葉さんは随分痩せたと思う。
雅紀を亡くした当時の俺のように見えた。色の無い世界に放り込まれて、四方八方が真っ暗な壁で、ただ、絶望だった。
だから、俺は彼を救うと決意出来た。
仕事帰りには大抵ここへ寄るように促し、休みの日は殆どを一緒に過ごした。
相葉さんは俺を愛してくれている。
それだけで十分だった。
その日は雨が雪に変わったり、雪が雨に戻ったりするような寒い日で、俺はおしぼりをホットキャビに詰め込んでいる最中だった。
肩を何度か叩かれて潤くんが言った。
「あれ、相葉さんじゃないよな?」
潤くんには大体の事を話していたから、店に入って来た雅斗を見てちょっと驚いていた。
「雅斗…」
振り返った俺は潤くんにうんって頷いて、その場を離れた。
「どうぞ…」
カウンターに座る雅斗におしぼりを渡して微笑んだ。
「久しぶり。」
「うん、久しぶり。…1か月…どこに居たの?」
タンブラーに氷を入れて、ジンとトニックウォーターを注ぎ、ゆっくりかき混ぜライムを添えた。
コースターに差し出した手を握られる。
「雅紀…元気?」
俺は反対の手で雅斗の俺を掴む手を解いた。
俯いて苦笑いする。
「相葉さん、元気だよ。今はね。雅斗が居なくなって最初はもう、大変だったんだから。半身無くしちゃったみたいに衰弱して…ずっと雅斗の夢を見てたよ。寝言で名前呼んでさ」
クスっと苦笑いして肩を竦める。
雅斗はタンブラーに手をつけて一口煽ると、俺と同じような苦笑いを浮かべた。
「双子だからかな…俺も暫く、雅紀の夢ばっか見てた。」
「帰んないの?」
雅斗は俯いて、それからゆっくり顔を上げて俺を見つめた。
「帰っても…いいかな?」
俺は、その黒い瞳を見て、キュンとしてしまう。
二人の関係を、羨ましいとは思っても、疎ましいとは微塵も感じなかった。
「いいに決まってるでしょ。相葉さんは、ずっと待ってるよ。」
「そう…かな?俺、雅紀に話したい事、沢山あるんだ。和を諦められた事…好きな奴が出来た事…変な意味じゃないんだ!……まだ、雅紀を…ちゃんと愛してる事。」
俺は、ニッコリ微笑んで、雅斗の頭をカウンター越しに抱き寄せて髪にキスをした。
雅斗は俺の首筋に擦り寄って囁く。
「兄貴の事…これからも頼むよ」
「うん…約束する。」
雅斗は残りのジントニックを煽って言った。
「今日、うちに帰るよ」
俺は、久しぶりにホッとしていた。
小さく頷いて店を出る雅斗を見送り、ジャズが静かに流れる店内でいつしか嬉しくて泣き出してしまい、潤くんのシャツを、濡らす程に困らせた。